共(今日)行動のブログ

開放と成長、僕の価値観トップ2。

そもそも評価軸が違う。

どうも、モケです。

 今日は学校の教育というかそんな大層なものではないんですけど感じた違和感を書いていきたいと思います。

 数学の教え方に違和感を覚えたことはありませんか?僕はこれが本当に重要なのかなと考えてしまいます。数学を教わるとき、これがこれがこうなるからこうなる、と教わります。つまりどうなっているか説明してるんですよね。だけど、それを知ることは重要じゃないと思ってしまいます。だってそれが本当かわからないから。だったらどうやってそれを発見したかの方が大切なんじゃないかと思います。それは時間がかかるものだからやらないのだと思いますが、違和感は残り続けると思っています。そもそも1ってなに、見えるの?見えてもそれがどうかしたの?それって人間が勝手に決めたものじゃないの?勝手に決めたものを信じていいの?どれくらい?悩みはつきません。

 でも、それにちょっとだけ明かり見えた気がします。糸井さんと池谷さんの対談で、

うん。
ぼくもそのことは何度も考えたことがあって、
だから、その考えを行動に移そうとするとき、
なにが障害になるかを知ってるんですよ。
つまり、まずやりたいほうへ走り出すと、
近代が要求するあるものと
矛盾を引き起こすんです。
なにかっていうと「目的」なんですよ。
ちょっと大げさにいうと、
いま、人や社会は、目的や目標、
あるいは計画っていうことばなしに、
なにも許してくれないんですよ。

 という、これはくだりの一部何ですけど、腑に落ちることがありました。何のためなのか、ということを聞かれてもよくわからないときがあると思うんですが、それが目標や目的と矛盾するということです。数学もそれだなと思いました。何々をするために何かをする。それがないから困ってんじゃん、発見の仕方を教えてよって思います。

 まあ気づいてるなら自分でやれよっていうと思うんですけど、それができないのが自分何ですよね。自分で自分がよくわからない。なんかモヤモヤするので終わります。